写真: Siarhei Nester / Pexels
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朝7時の独立広場を歩くと、ハトに餌をやる年金生活者が3人、赤い教会のそばで煙草を吸うKGB職員が1人。正午になるころには、同じ広場でカップルが1934年築の政府庁舎を背景に写真を撮っています。10月の光のなか、その列柱はちょうど47 metersの影を落とします。ここでは、その対比は皮肉ではありません。ただの火曜日です。
ミンスクは、急がない人にこたえる街です。トロイツコエ郊外地区の石畳のあいだには、改装された商人の家に入る映画博物館が隠れていて、戦前のベラルーシ映画がレンガ壁にちらつきます。涙の島の慰霊碑は、スヴィスラチ川の気分に合わせて表情を変え、4月の霧では天使像が本当に涙を流しているように見えます。無骨な国立図書館でさえ二つの顔を持っています。昼は22階分の本の塔、夜は15 kilometers先からでも見えるLEDの幾何学ディスコです。
どこを歩くか、エリアごとに — それぞれに固有のリズムがあります。
出発前に
石ひとつごとに別の帝国を記憶している場所
『原初年代記』に、ネミガ川での凄惨な戦いの舞台としてMenskの名が現れます。名前は残りましたが、木造の集落は数か月のうちに焼失しました。考古学者たちは今も地下6 metersの場所で炭化した木材を見つけています。
ゲディミナス大公が戦わずしてミンスクを支配下に置きます。市場の取引では、古東スラヴ語に代わってリトアニア語が使われるようになりました。木造家屋の下に石造の基礎が現れるのも、このころが初めてです。
カジミェシュ4世がミンスクに自治権を与えます。商人たちはもはや大公の許可なしで市を開けるようになりました。町の広場には初めて本格的な尺度が与えられ、長さ250 metersの長方形になります。馬車の穀物荷車が方向転換できるだけの幅がありました。
クリミアの騎馬兵が夜明けに木柵を突破します。1,400人が連れ去られ、残りは焼き払われました。生き残った人々は川に近い場所へ再建し、その結果できた街路の癖が今でも運転手を悩ませています。
ルブリン合同により、ミンスクはヨーロッパ最大の国家へ組み込まれます。カトリック司祭たちが到来し、いま赤い教会が立つ場所に木造教会を建てました。税の記録は一夜でキリル文字からラテン文字へ切り替わります。
ミンスク最初の石造教会は、完成までに12年かかりました。壁の厚さは2 metersあり、包囲戦の際には守備兵がその上を歩けるほど。鐘の音は15 kilometers離れた村まで届いたといいます。
第二次ポーランド分割で、ミンスクはエカチェリーナ2世の手に渡ります。1年以内に学校ではロシア語が必修となりました。メインストリートの名も「ワルシャワ街道」から「モスクワ街道」へ変わり、そのまま124年間続きます。
モスクワからの最初の列車が6:43 AMに到着し、乗客は47人でした。駅の時計は地元の日時計より1時間進んだサンクトペテルブルク時間を示していました。5年以内にミンスクの人口は倍増し、90,000人になります。
現バフダノヴィチ通りで、近代ベラルーシ文学の父が生まれます。彼の詩は後にポーランド時代にもソ連時代にも禁じられました。25歳で亡くなりますが、Belarusの школьникなら誰でも『パホニャ』を暗唱できると言われます。
ロシア社会民主労働党が、パン屋の地下室で創立大会を開きます。参加した代議員は9人、警察の密告者は1人。3年もしないうちに党はボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂します。
1月8日、ミンスクは白ロシア・ソビエト社会主義共和国の首都になります。人口は45,000人、まともに動く街灯は1基だけ。6か月後にはポーランド軍に占領され、1920年までに再び失われます。
Belarus国立大学が、旧軍営施設を使って1,200人の学生とともに開学します。初代学長は1930年、スターリンの粛清で逮捕されました。いま目にする本館が完成したのは、1960年になってからです。
ドイツ軍が6月28日にミンスクへ入城します。36時間のうちに、80,000人のユダヤ人を収容するゲットーが設置されました。1943年までに生き残ったのは数十人だけ。街は戦前人口の80%を失います。
最後の攻撃で、ソ連軍砲兵は200,000発の砲弾を撃ち込みます。煙が晴れたとき、ミンスクの80%は瓦礫でした。人口は300,000人から50,000人へ落ち込みます。再建は、戦争が終わる前に始まりました。
捕虜たちが400,000 cubic metersのコンクリートを流し込みます。独立大通りは、全長11 kilometersにわたるヨーロッパ最長の社会主義リアリズム展示場になりました。計画が完了したのは1964年、予定より10年遅れです。
爆発翌日の4月27日、放射性降下物がミンスクに到達します。当局が市民へ警告を出したのは1週間後。幼稚園児たちは降り注ぐ同位体の下で、メーデーの行進に参加させられていました。
のちに女子テニス世界1位となる選手が、郊外のソ連式産院で生まれます。当時、市内の屋内コートは1面だけ。彼女は暖房のない体育館で、自分の倍ほどの体格の少年たちを相手に練習しました。
最高会議は263対2でソ連離脱を可決します。広場の外では、70年間学校で禁じられていた言語で「Belarus万歳」と群衆が叫んでいました。広場の向かいに立つKGB庁舎だけは、一晩中明かりを消しませんでした。
国立図書館の菱形立方八面体には8.6 million点の資料が収められています。夜になると4,646枚のLEDパネルが建物全体を巨大スクリーンに変えます。地元の人たちはこれを「飛び立てなかった宇宙船」と呼びます。
100,000人が独立広場を埋め、新たな選挙を求めました。人々が掲げていたのは、1995年に禁止された白赤白の旗。警察はゴム弾と閃光弾で応じます。噴水の水は薄まった血でピンク色に染まりました。
観光客向けメニューではなく、地元の人が実際に夕食を予約する店。
豚脂で揚げて、表面がぱちぱちとはじけるまで焼いたベラルーシ風ポテトパンケーキ。コマロフスキー市場で頼むと、おばあさんたちが「サワークリームは必要」と言い張り、こちらが笑うと代金を受け取らないことすらあります。
肉入りダンプリングにとろりとかける濃厚な豚肉シチュー。二度の世界大戦もソ連の配給制もくぐり抜けた一皿です。トロイツコエ郊外地区の地下酒場では、指先が熱くなる鋳鉄の器で出てきます。
夏の歩道で木樽から注がれる、よく冷えた発酵パン飲料。液体のライ麦パンのような味わいで、かすかな発酵の気配があります。地元の人は22 pmを過ぎるとウォッカで割ります。
森のきのこのグレービーに泳ぐ、手打ちのダンプリング。インテルナツィオナリナヤ通りのCafé Druzyaでは、おばあさんが朝5 amから毎日400個つくります。売り切れたら、その日は閉店です。
サワークリームと、ソ連時代から熟成させたそば蜂蜜を重ねた層菓子。勝利広場近くのLido食堂では、1974年製のソ連式デザートカッターを今も使っているので、45-degreeの完璧な角度で切り分けられて出てきます。
街のあなたへの接し方が変わる、ちょっとしたこと。
ありのままの、この街。
はい。ソ連時代の幾何学的な都市構造がそのまま残り、物価はクラクフの半分ほど。12世紀の教会から、まるで菱形立方八面体のような国立図書館まで15分で歩けます。地下鉄の駅でさえ美術館のホールのようです。
追悼施設やトロイツコエ郊外地区のカフェ、ミール城とネスヴィジ城への日帰りまで入れて3日あれば十分です。ボリショイ劇場でオペラを観たいなら、あるいは平日の空気のままコマロフスキー市場を歩きたいなら、4日あると余裕があります。
西側諸国のパスポート所持者の多くは、ミンスク・ナショナル空港経由なら30日間のビザなし入国が可能です。ただし医療保険の証明が必要で、未加入のまま到着した場合は空港カウンターで1日€1で購入できます。
中心部は明るく、警備も行き届いており、地元の人たちは十月広場を深夜まで散歩しています。01:00以降の鉄道駅周辺では、照明の少ない地下道を避ければ十分。特別な危険というより、大都市での基本的な注意です。
いいえ。使えるのはベラルーシ・ルーブル(BYN)のみです。余った現金は出国前に両替してください。Belarusの外ではほとんど価値がありません。ATMなら良いレートで直接BYNを引き出せます。
最安は急行バス300эで、料金はBYN 4(≈ $1.50)。45分でCentralnyバスターミナルに着きます。到着ロビーのタクシーは平均€25ほどで、乗る前に料金確認が必要です。
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