クマール ダバ
local favoriteおすすめ: バターチキンカレーと自家製ナンは外せません。観光客向けのそれらしいカレーではなく、地元の人が並ぶ、本気の北インドの家庭的なうまさがあります。
店主が常連の顔と名前をきちんと覚えている、本物の町の一軒です。117件の口コミで4.7という数字は、観光客向けに無難にまとめている店ではなく、ちゃんと実力で支持されている証拠です。
東京都の朝の通勤者を職場へ運ぶ道は、かつて将軍の亡骸をその社へと運んだ道でもありました。そしてアスファルトは、いまもほぼ同じ筋をたどっています。東京都中心部の千代田区から埼玉県、群馬県を北上し、聖なる山の町・日光へ至る国道122号は、日本でも層の厚い歴史を抱えた幹線道路のひとつです。都と山あいを、人々を運ぶ。その目的だけは、神聖な理由であれ日常の事情であれ、一度も途切れたことがありません。
たいていの旅行者は、国道122号の名前を知らないまま、この道に出会います。皇居近くで横切り、川口で渋滞にはまり、あるいは群馬の山のトンネルを勢いよく抜ける。そのとき自分が、周囲の都市より何世紀も古い回廊をなぞっているとは気づかないことがほとんどです。この道はもともと封建時代の街道、徳川幕府の五街道のひとつとして始まりました。1953年に指定された現代の国道は、そこにあった道を舗装したにすぎません。
国道122号に目を向ける価値があるのは、ひとつの名所のためではありません。地図に引かれた一本の線に、何世紀もの時間が折り重なっているからです。江戸時代の石の一里塚が、コンビニのすぐ手の届く場所に残る。狛犬の代わりに石の鯉が置かれた神社が、1日4万台の車が行き交う交差点を見下ろしている。この道は、東京都の濃密な都市中心部と、日本でもとりわけ崇敬を集める聖地のひとつを結んでいます。しかも、400年ものあいだ淡々とその役目を果たしてきたインフラらしい無頓着さで。
端から端まで走れば、およそ180キロのあいだに日本の地理がひと通り現れます。東京都心のガラスと鉄の峡谷、埼玉の平らな郊外の広がり、そして群馬の森深い山越え。そこでは道路が火山岩を穿ったトンネルを縫って進みます。行き着く先は日光。杉並木と金色の社殿が待ち受け、その静けさは、江戸の将軍たちが意図したかのように、東京都の騒がしさと鮮やかな対照をなします。
歴史
道は、あっけなく死にます。バイパスに役目を奪われ、経路を変えられ、ショッピングモールの下に埋もれていく。国道122号が生き延びたのは、その役割、つまり権力の座と聖なる場所を結ぶという使命が、一度も古びなかったからです。1601年に徳川家康が道路改修を命じた時点で、江戸と北方の山々を結ぶこの回廊は、すでによく踏み固められた道でした。1635年、孫の家光が参勤交代を制度化し、諸大名に隔年で家族ごと江戸へ行進することを強いると、この道は日本でも屈指の交通量を持つ動脈になります。そして3世紀後に自動車が現れても、技師たちは、ただそこにあった道を広げただけでした。
この経路は、江戸時代の二つの街道に沿い、ときに重なり合っています。ひとつは主たる儀礼道路の日光街道、もうひとつは将軍の私的な日光参詣だけに使われた並行路線、日光御成街道です。この違いはアスファルトの下に消えました。けれど役割は残りました。人は今も、日光の社寺を目指してこの回廊を進みます。違うのは、徒歩ではなく時速80キロで走ることくらいです。
転換点
三代将軍・徳川家光は、祖父家康の記憶に取り憑かれていました。家康が1616年に亡くなると、その遺骸は最初、静岡の久能山に葬られます。けれど家光は、幼いころから祖父を崇拝し、その名を聞くだけで涙したとも伝えられる人物でした。1617年、新たに造営された日光東照宮へ家康の御霊を遷す段取りを整えたのは彼です。造営そのものは父秀忠が見守りましたが、将軍となった家光こそが、質素だった社殿を、今日まで残る金箔きらめく壮麗な複合建築へと変えました。
家光にとって、日光への道は単なるインフラではありませんでした。信仰が形を持ったものだったのです。彼は街道の維持に惜しみなく資源を注ぎ、参道を縁取る杉並木の保護を命じました。この命令が、いまやユネスコ世界遺産となった日光杉並木街道を生みます。長さはハーフマラソンの距離を上回ります。1635年に家光が制度化した参勤交代は、この道を決して荒れさせませんでした。毎年、何百もの大名行列がここを進み、中には家臣千人超の列もありました。
転機になったのは、1651年の家光自身の死です。彼は祖父のそば、日光に葬られました。これによってこの道は、生者の道であると同時に死者の回廊にもなります。その後、この街道をおろそかにする将軍は、徳川の創業そのものを軽んじるように見られかねませんでした。道の存続は、もはや土木の問題ではありません。政治神学の問題だったのです。
おすすめ: バターチキンカレーと自家製ナンは外せません。観光客向けのそれらしいカレーではなく、地元の人が並ぶ、本気の北インドの家庭的なうまさがあります。
店主が常連の顔と名前をきちんと覚えている、本物の町の一軒です。117件の口コミで4.7という数字は、観光客向けに無難にまとめている店ではなく、ちゃんと実力で支持されている証拠です。
おすすめ: 串カツの盛り合わせ。豚、えび、野菜をカラッと揚げ、酸味のきいたソースで食べます。東京の気取らないごはんの良さが、そのまま出ています。
きちんと機能している、ちゃんとしたチェーン店です。口コミは663件、いつも安定してにぎわっていて、仕事帰りの会社員が肩の力を抜く店として使われています。安い。気取りはない。満足感はきっちりあります。
おすすめ: 季節の定食と焼き魚。この店は利益の出るものを固定で並べるのではなく、その日にいい食材で献立が動きます。
口コミ197件で4.4。長く近所に根づき、地元の人がためらいなく信頼している一軒です。見せるための派手さはありません。ただ、まっとうにおいしい日本料理があります。
おすすめ: 旬の野菜を、焼き物か日替わりで。店名の「Yaoya」は八百屋の意味で、ここでは野菜が主役です。
2階にある、こぢんまりした親密な店で、地元の人が酒とまっとうな料理を求めて集まります。営業時間が限られているのも、万人受けを狙っていないからです。この町に必要なものだけを、きちんとやっています。
レストランデータ提供元: Google
はい。ただし目的地というより通り道として考えるべきです。価値があるのは、東京都から日光までおよそ158kmに点在する立ち寄り先にあります。足尾銅山観光では明治時代の坑道に当時のトロッコで入れますし、渡良瀬渓谷は10月になると谷が真紅に染まります。桐生近くには、制限速度で走ると実際に音楽が鳴る区間まであります。埼玉の市街地寄りの平坦区間は、パチンコ店や工業的な景色が好きでない限り、無理に時間を使わなくて構いません。
休憩なしの直行なら3〜4時間ですが、何かを見るつもりなら丸1日、つまり8〜10時間みておくのが現実的です。足尾銅山観光だけで90分は必要ですし、草木湖近くのメロディーロードは15〜30分、わたらせ渓谷鐵道のトロッコ列車を往復で乗るなら半日仕事です。2日あれば渓谷でゆっくり過ごし、日光にも慌てず入れます。
国道122号は豊島区の池袋付近から始まるので、東京都中心部から北へ向かって車を走らせているなら、すでにその路線上にいます。車なら北区を通って埼玉県の川口方面へ北東に進めば乗れます。車がない場合は、桐生駅から出るわたらせ渓谷鐵道が景色のいい山岳区間に並行して走っています。上野からJR両毛線でおよそ2時間です。わざわざ足を延ばす価値があるのは、この山の区間だけです。
いちばんいい時期は10月中旬から11月中旬です。渡良瀬渓谷が紅と黄金の紅葉で満たされ、関東でも屈指の紅葉回廊になります。春の4月から5月は桜が咲き、トロッコ列車のシーズンも始まります。12月から3月にかけての山間部は避けたほうが無難です。足尾より上では雪や凍結で路面状況が悪くなり、トロッコ列車も運休し、山から吹き下ろす強烈な空っ風が利根川の橋で本当に車を横に押すことがあります。
道路そのものは無料の一般道で、黒保根近くのメロディーロード区間も料金はかかりません。窓を閉め、制限速度で走るだけで、タイヤを通して「うさぎとかめ」が聞こえてきます。足尾銅山観光の入館料は大人¥830、子ども¥410です。わたらせ渓谷鐵道のトロッコ列車は通常運賃に加えて¥520の追加料金が必要です。道の駅くろほね・やまびこは無料で、24時間使えるトイレと駐車場があります。
いちばん印象に残るのは足尾銅山です。坑道の入口では気温が10〜15℃下がり、空気は鉄と鉱泉の匂いを含み、1世紀使われてガラスのようにつやを帯びたトロッコのレールに触れられます。足尾へ向かう途中の禿げた山肌も見落とさないでください。100年以上前の二酸化硫黄の排出で山は丸裸になり、何十年も植林を続けたあとでも、周囲の森に対して痛々しいほどの傷跡を見せています。草木湖近くのメロディーロードは本当に妙な魅力がありますし、終点側にある日光杉並木は、400年ものスギが約37kmにわたって大聖堂のようなトンネルをつくる光景で、思わず車を止めて立ち尽くしたくなります。
はい。群馬県の道の駅くろほね・やまびこと草木湖のあいだでは、アスファルトに刻まれた溝が、制限速度で走ると童謡「うさぎとかめ」を奏でます。いちばんはっきり聞くなら窓は閉めておくこと。速度を出しすぎると旋律は判別不能なうなり声に崩れます。安全運転への誘導と受け取るか、音楽批評の道具と見るかは、人それぞれです。
国道122号は、江戸と日光東照宮を結ぶために整えられた江戸時代の日光街道と日光御成街道の流れを引いています。1636年ごろには五街道体制の一部として道筋が固まり、1635年の参勤交代制度によって、大名が隔年で江戸へ往復したため、軍用水準で維持されました。現在の国道として指定されたのは1953年で、その際に元の道筋の大半は舗装道路に置き換えられましたが、断片はいまも残っています。東京都北区の石の一里塚標、草加の復元松並木、そして日光へ入る手前の杉並木です。
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